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にっぽん自動車ぶらり旅
~インプレッサWRX STi編~

山の辺の道を歩く

2015年05月03日~07日

05月05日(火)

山の辺の道を歩く

 奈良には山の辺の道という古代の道がある。山の辺の道は7世紀初めに上・中・下ッ道とあった官道の上ッ道の更に東にあった古道であるという。三輪山の麓から春日山の麓まで続いていたというが、現在ではこの古道がどこを通っていたかははっきりと分からないとか。

 しかし山の辺の道は現在、ハイキングコースとして整備されている。スタート地点とゴール地点も色々と企画されているようだが、実は私、2012年に天理駅から桜井駅に続くコースを歩こうとしたことがある。しかし、この時は雨に祟られたこともあり完歩することができなかった。で、この日はそのリベンジを果たすために再び挑戦しようというわけ。

 前日は法隆寺近くに宿泊したので早朝から法隆寺を参拝。その後、天理駅に向かい、いよいよ山の辺の道にチャレンジ。

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法隆寺

 この日は早朝から起床。07時前には法隆寺に向かって歩き始めた。私は歩くのが割りと早い方だと思うが、その私の足で前日に宿泊したいかるがホテルから法隆寺までは30分くらいだろうか。

東大門に向かう 1:法隆寺(07時27分) 細かくは省略させて頂くが国道25号を西方向(斑鳩町方面)にしばらく進んだ。途中で右に曲がり、その後も何回か左に曲がったが30分ほど歩くと法隆寺に着いた。

 本当は国道25号を法隆寺前信号まで歩いて右に曲がり奈良県道146号法隆寺線を歩いて南大門に出るのが正しいのだろう。しかし私は街中を東から歩いて夢殿がある東院伽藍の入口、四脚門の前に出た。東院伽藍には08時まで入れないようだったので、そのまま西方向の東大門へと向かった。 地図1:法隆寺

東大門  国宝・東大門。説明看板に奈良時代と書かれていたが、奈良時代(710年~794年)の建築ということだろう。日本最古の僧門であるという。木や瓦、壁の雰囲気が歴史を感じさせる。

法隆寺伽藍配置図  東大門を通過して進むと西院伽藍の前に出た。写真は西院伽藍の前にあった法隆寺伽藍配置図。法隆寺伽藍配置図を確認すると、目の前の西院伽藍は後にして南に向かった。南には南大門がある。

南大門  国宝・南大門。法隆寺の総門。創建時の門は永享7(1435)年に焼失。現在の門は永享10(1438)年に再建されたという。

南大門から西院伽藍  南大門から西院伽藍。

西院伽藍1  参道を西院伽藍に向かって進む。

西院伽藍2  「日本最初の世界文化遺産 法隆寺」石碑の後ろに西院伽藍。正面に見える門は中門。左に法隆寺五重塔が見える。

西円堂  西院伽藍の北西方面に向かうと石段の上、高い位置に八角形の堂が見える。これが国宝・西円堂。奈良時代に橘夫人の発願により行基が建立したとか。しかし現在の堂は鎌倉時代に再建されたものであるという。

西円堂からの風景  西円堂は高い位置にある。写真は西円堂付近から五重塔方面を撮影したもの。この後、いかるがホテルへ戻ることに。

東院伽藍西側道路  07時51分、東院伽藍の入口、四脚門の前に戻った。ここから国道25号まで戻り、ホテルに向かって歩く。

国道25号米寿橋  08時10分、いかるがホテル付近の国道25号米寿橋まで戻ってきた。橋の上から前日に宿泊した、いかるがホテルを撮影。左の茶色い建物が本館で右側の白い建物が別館。かなり強烈なホテルであったが、これも人生における勉強と思うことにしよう。

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大和郡山市~天理市

いかるがホテル出発 2:いかるがホテル(08時22分) ホテルに戻るとホテルの隣にあるコンビニで山の辺の道を歩く準備を整えた。たくさんの水分と少しの食料を購入。買い物を終えるといよいよ出発。STiの外気温計は20℃を示している。心地良い気温だ。天気も最高。さあ、まずは天理駅を目指して出発。 地図2:いかるがホテル

横田町信号 3:横田町信号(08時33分) いかるがホテルを出発すると、まずは国道25号を右へと進んだ。しばらく国道25号を走ると横田町信号に至るが、ここで右折。国道25号は24号と合流して奈良バイパスに入った。 地図3:横田町信号

 奈良バイパスに入ると間もなく西名阪国道郡山ICを通過。大和郡山市から天理市に入った。奈良バイパスは、ここから京奈和自動車道となる。この付近で国道24号・25号は現道と分岐するのだが、ここは左に進んで現道に入った。

嘉幡町信号 4:嘉幡町信号(08時39分) 少し進むと嘉幡町信号で国道24号と25号は分岐する。直進方向が24号、左折は25号。私は左折して国道25号を進んだ。 地図4:嘉幡町信号

天理駅前駐車場 5:天理駅前駐車場(08時48分) 国道25号を進み、川原城町信号で左折。国道169号に入った。

 国道169号に入ったのも束の間。中大路信号を左折して市道へ。ここを直進すると天理駅。

 天理駅前信号に至ると左折。左折した刹那、左側に天理駅前駐車場があるので、ここにSTiを駐車した。ちなみに、この駐車場は3年前(2012年)に山の辺の道を訪れた時にも利用した駐車場である。 地図5:天理駅前駐車場

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山の辺の道 天理駅~石上神宮

天理駅 6:天理駅(08時58分) 私は3年前(2012年)にも山の辺の道を天理駅から歩こうとチャレンジしたことがある。

 その時は、私が車を停めた(当時はSTi・GDBではなくGDAに乗っていた)天理駅前駐車場の隣に観光案内所があり、そこで山の辺の道のパンフレットを入手したのだが今回は案内所が無くなっていた!?まあ、こういう時代なので…。

 仕方なく天理駅に向かうと「天理市観光物産センターナビ天理」があったので、ここで情報を入手。山の辺の道へ向かった。 地図6:天理駅

 3年前の私は、山の辺の道とは天理駅から桜井駅までのルートであると思っていた。しかし、これは間違い。

 山の辺の道は大和古道のひとつで、三輪山麓から春日山麓までの山裾を通る古道であるという。現在どこを通っていたのか確実視することはできないというが、特に石上神宮(いそのかみじんぐう)から大神神社(おおみわじんじゃ)付近までの約15kmはハイキングコースとしてかなり整備されているようだ。

 今回のルートは天理駅から石上神宮に向かい、大神神社を通過して桜井駅まで向かうコース。桜井駅から電車に乗って天理駅に戻ろうという訳。

 まあ、3年前に目指したコースと全く同じなのですけれどもね。しかし、3年前は天気に邪魔されたり準備が甘かったこともあり歩ききれなかった。今回は歩ききれるかどうか。3年ぶりの挑戦が始まる。

天理本通 7:天理本通 「天理市観光物産センターナビ天理」で入手した地図を見ながら、まずは石上神宮(いそのかみじんぐう)目指して駅前の天理大通を進んだ。天理大通はアーケード街になっており、色々な店が出ていて見ているだけでも楽しい。

 ところで天理市は日本で唯一宗教団体の名が付いている市。もっとも天理教は天理市という名が付くことにあまり賛成ではないという。しかし天理市の中心部には天理教の施設が集中し、天理教の法被を着た人たちが多く歩いている。その宗教都市としての光景は、今まで私が訪れた都市では見たことがない。一見の価値あり。 地図7:天理本通

天理教教会本部 8:天理教教会本部(09時17分) アーケード街では当然日も当たらず快適に歩くことができた。それにしても天理大通のアーケード街はかなりの規模だ。15分ほど歩いて、やっとアーケード街を通過。

 アーケード街を通過すると屋台がたくさん並び、お祭りのような雰囲気に。そして、たくさんの人たちが訪れている大きな建物があった。これが天理教教会本部である。 地図8:天理教教会本部

9:布留信号 天理教教会本部を通過して少し進むと少し広い道に合流した。更に進むと前日に車で通った布留信号に至る。ここで右へ進んで間もなく、石上神宮(いそのかみじんぐう)に到着。 地図9:布留信号

天理教教会本部 10:石上神宮(09時27分) 布留信号を右へ進むと奈良県道51号天理環状線に入った。県道に入って少し歩くと石上神宮に到達。 地図10:石上神宮

天理教教会本部  石上神宮は伊勢神宮と共に日本最古の神宮であるという。また仏教伝来の折に蘇我氏と対立した物部氏の総氏神であるとも。

天理教教会本部  石上神宮境内には、なぜかニワトリが何羽も歩いていた。ニワトリそのものは珍しくもないのだが、それが境内を歩き回っている光景は不思議と珍しく感じてしまう。思わず撮影せずにはいられない。

天理教教会本部  楼門から拝殿を望む。楼門は後醍醐天皇の文保2(1318)年に建立。重要文化財。拝殿は鎌倉時代初期の建築であり拝殿としては現存する最古のものであるという。国宝に指定されている。

天理教教会本部  拝殿に向かう途中で通過した石上神宮鏡池まで戻った。ここには「ワタカ」という魚が生息しているという。説明看板によると、ワタカは琵琶湖及び琵琶湖に接続する淀川水系に産する鯉科の淡水産硬骨魚。写真に写っている魚がワタカなのかどうかは分からないが、ワタカの全長は30cmほどであるとか。とすると、手前に見える魚は少し大きく見えなくもない。

天理教教会本部  山の辺の道は石上神宮鏡池の東側にある。標識もあって分かりやすいのだが、3年前に来た時は随分探したような記憶がある。やはり、こういう大きな神社ではしっかりした境内図などがないと分かりにくいのだろうか。

 ところで山の辺の道入口で説明看板を発見。実は、この説明看板を見つけるまで私は現在の山の辺の道を天理駅から桜井駅までのルートなのだと思っていた。ところが、この説明看板は天理駅から桜井駅に向かう反対側にあるハイキングコースだ。これから、いよいよ山の辺の道という出発点で、まさかの事実発覚。いずれまた、反対側も歩きに来なければならないのだろうか?

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山の辺の道 石上神宮~竹之内環濠集落

芭蕉句碑 11:芭蕉句碑(09時45分) 山の辺の道に入ると、しばらくは池の畔など自然の中を歩いて行く。道程はまだ始まったばかり。

 池の畔を過ぎると山の辺の道は街中へと進む。国道25号の下を通って少し進むと、また別の池の畔に芭蕉句碑のあるT字路があった。山の辺の道は、ここで左へと進む。 地図11:芭蕉句碑

芭蕉句碑説明看板  芭蕉句碑説明看板。この付近は、山の辺の道序盤における見所のひとつ、内山永久寺跡である。説明看板によると、この句が詠まれた時、松尾芭蕉は伊賀上野に住んでいたようだ。当時としてはよその地から内山永久寺へ参拝に来た芭蕉。偶然にも桜が満開の時期に訪れたようで、土地の人々は満開の時期をよく知っているのだろうが外の人には知る由もない、と詠んでいるようだ。

 現在においては旅に出かける前、インターネットや情報誌によって彼の地の情報を予め入手しておくことは容易い。しかし芭蕉が生きた江戸時代においては、そうはいかなかったのであろう。もちろん芭蕉は目的地を設定して旅していたのだろうから「ぶらり旅」とは言えないかもしれない。しかし、この句のように彼の地を訪れて思いがけないものを発見することにこそ、ぶらり旅の原点があるのではないだろうか。

内山永久寺跡碑 12:内山永久寺跡(09時46分) 山の辺の道において天理駅から桜井駅を目指すコースで最初の目的地になるのは、この内山永久寺跡ではないだろうか。 地図12:内山永久寺跡

内山永久寺之図  内山永久寺之図。内山永久寺は、かつて東大寺・興福寺・法隆寺に継ぐ寺領を有し、その規模と伽藍の壮麗さから西の日光と称されたという(展望台説明看板より)。しかし明治時代の廃仏毀釈(はいぶつきしゃく)により廃寺となり、現在では本堂池が残るのみであるという。

永久寺跡説明看板  内山永久寺跡説明看板。

展望台へ上る階段 13:内山永久寺説明看板のある展望台(09時51分) 内山永久寺跡の碑から少し歩くと展望台があった。ここは3年前に山の辺の道を歩いた時にも立ち寄っている。 地図13:内山永久寺説明看板のある展望台

展望台に藤  展望台に上ると東屋があった。これは3年前と同じ。東屋には藤の枝が絡みついていた。残念ながら花は既に散っていたが。藤の花が屋根となる東屋。満開の時期に来れば、さぞかし気持ち良かったことであろう。

展望台の東屋  東屋には机と椅子が置かれているが、その上には藤の花びらが散っていっぱいになっていた。ところで3年前に来た時も、あまり藤の花の印象は残っていないのだが果たして3年前は藤の花が咲いていたのかどうか。

3年前の展望台  で、3年前の写真を見てみた。なんと3年前には藤の木は、まだ少ししかなかったようだ。この東屋が3年後には藤の花でいっぱいになるということ。

西の日光 内山永久寺  展望台にある説明看板。この後、展望台を出発。山の辺の道は、ここから山道へと入っていく。

天理観光農園 14:天理観光農園 10時頃、天理観光農園に到着。ここにはカフェがあり、山の辺の道を歩いていると思わず休憩したくなる場所にある。 地図14:天理観光農園

プレミアムミルク  私もここで少し休憩。まだ1時間しか歩いていないのに、ほどほど疲れてきていた。先が心配。ここは冷たいものでも食べておこうと思い、ソフトクリームのプレミアムミルクを注文。価格は300円(2015年05月05日現在)也。ミルクの味が濃厚で大変美味しかった。

さくらんぼ  天理観光農園の周りには、さくらんぼ(?)の木が取り巻いていた。見た目もキレイだったが、実が小さいわりには美味しそうに赤く染まっていて思わず口に入れたくなる。さすがに私は我慢したが、隣にいた方が我慢しきれずパクッ。味はどうだったのだろう。気になる。

夜都伎神社説明看板 15:夜都伎神社(10時19分) 天理観光農園を出発してから道標を辿り、しばらく歩いた。やがて説明看板が目の前に現れる。夜都伎神社(やとぎじんじゃ)の説明看板だ。 地図15:夜都伎神社

夜都伎神社縁起  夜都伎神社の縁起。

夜都伎神社鳥居  鳥居を潜り境内へ向かう。

夜都伎神社社務所  まずは正面に社務所が見える。

夜都伎神社拝殿  鳥居から見て右側に拝殿がある。その奥に本殿があるという。

竹之内環濠集落説明看板1 16:竹之内環濠集落(10時31分) 説明看板によると竹之内町には、中世に築かれたと考えられている濠が集落の西側に現在も残っていて「竹之内環濠集落」として知られているという。写真の説明看板は竹之内町自治会館隣の公衆トイレ前にある。 地図16:竹之内環濠集落

竹之内環濠集落説明看板2  もうひとつ、竹之内町自治会館付近のゴミ収集場に説明看板が立っている。それにしても、なぜ説明看板が公衆トイレやゴミ収集所前を狙って(?)立っているのかはナゾであるとしか言いようがない。

 説明看板によると、奈良盆地には集落の周囲に濠をめぐらせたものが非常に多いという。これらは戦国期の動乱から自衛手段として防御する方法であったものと思われる。天理市には竹之内町のほかにも備前町、南六条町、庵治町などで環濠の痕跡を良く留めているとか。

 それにしても山の辺の道沿いには当然のことながら古代の遺跡が集中しているのだが、その中で中世の遺構である竹之内環濠集落の存在は貴重なのではないだろうか。

竹之内環濠集落濠1  説明看板の北側に環濠集落の遺構である濠が残っている。現在では灌漑用に転用されているのであろうか。説明看板付近からも濠は見えるのだが、説明看板を読んでいなければ濠とは気付かないだろう。私も3年前に訪れた時は全く分からなかった。その時は、竹之内環濠集落が全く見つからず、周辺を歩き回った挙句にようやく説明看板を見つけた記憶がある。

竹之内環濠集落濠2  竹之内環濠集落周辺には山の辺の道本来の道から外れて歩いている人達が多く見られた。この人達も3年前の私と同じく、竹之内環濠集落が見つからずに探しているのではないだろうか。私が思うに、竹之内環濠集落は山の辺の道前半における難関のひとつであるように感じる。

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山の辺の道 竹之内環濠集落~衾田陵

 山の辺の道はハイキングコースとして整備されていて、途中にいくつも座ることができる休憩所もある。私も何回か休んで水分やオヤツを摂ったりしたが、ある休憩所で休んでいた年配の御夫婦と少し話した。御夫婦の話で衝撃の事実が発覚。

 3年前に来た時も感じてはいたのだが石上神宮を出発した時点では、いかにもハイキングで山の辺の道を歩く人達が同じ方向に続々と歩いている。ところが歩いているうちに、今まで歩いていた人達の数が少しずつ減っていき、ついには周りに全く人がいなくなる場所すらあった。この不思議が御夫婦との会話で解明。

 私はこの時、天理駅から桜井駅まで歩こうとしていたのだが(そもそも山の辺の道は天理駅から桜井駅まで歩くコースだと思っていたので)、どうも、それほど長く歩く人はほとんどいないらしい。

 中には私のように天理駅から桜井駅まで一気に歩く人もいるのだろうけれども、多くの人は何回かに分けて歩くという。なるほど、確かに私の服装(汗拭きタオルを首にかけ荷物はしっかりリュックサックの中へ)に比べると、かなりカジュアルな服装の人も多かった。もっとも私は長野のような遠隔地から来ているので、一度に歩かざるを得ないところもあったのだが。

山の辺風紋地区の注意事項  竹之内環濠集落を出発すると、再び山の辺の道に戻って歩き始めた。途中、こんな標柱が。標柱によると、この付近は「山の辺 風紋地区」らしい。標柱の内容を搔い摘んで言うと、景色を変えたり遺跡に干渉する恐れがあることを行う時は市長の許可をとりましょう、ということか。こうした地域の人達の努力によって遺跡は守られているのだろう。

大和古墳群説明看板 17:大和古墳群(10時43分) 山の辺の道に戻り歩いていると、大和古墳群の説明看板を発見。 地図17:大和古墳群

大和古墳群付近の風景  この付近は大和古墳群と呼ばれる、大型古墳が集中している場所らしい。説明看板によると大和古墳群は、中山支群と萱生(かよう)支群に区分することができるという。

西山塚古墳説明看板 18:西山塚古墳(10時49分) ところで山の辺の道周辺には果物や野菜などの無人販売所を設けてある民家も多くて、それらを見るのもなかなか楽しい。

 このスパン、山の辺の道はいちど畑の中へと進んでいくのだが再び人里へ戻った。街中へと入っていくと道の周りに何やら溜池のようなものが現れた。そして溜池の畔に説明看板を発見。どうやら、この溜池は西山塚古墳の周濠跡のようだ。 地図18:西山塚古墳

西山塚古墳1  溜池の向こう側に見える小山が西山塚古墳の後円部。西山塚古墳は大和古墳群の中では少し珍しい古墳のようだ。説明看板によると、まず大和古墳群では前期古墳が大半を占めているようだが、この古墳のみ後期の大型前方後円墳であるという。また、大和古墳群の中で唯一前方部を北側に向けているとか。

西山塚古墳2  西山塚古墳の後円部。説明看板によると、この古墳の南東にある西殿塚古墳が「手白香(たしらか)皇女衾田(ふすまだ)陵」に治定されているが、西殿塚古墳が3世紀後半ごろの築造と考えられているのに対して手白香皇女は6世紀ごろの人物であり、西山塚古墳の年代に近似することから西山塚古墳が手白香皇女の真陵であるとする説もあるという。

五社神社 19:五社神社(10時54分) 西山塚古墳を通過して少し歩くと右側に五社神社があった。衾田陵に向かうためには、ここで左折することになる。 地図19:五社神社

衾田陵遠景 20:衾田陵(10時59分) 五社神社の前で左に曲がり住宅街の小道に入っていく。住宅地を抜けると畑に入っていき道が正しいのか不安に成るが、正面に衾田陵が見えるので正しいと確信した。 地図20:衾田陵

衾田陵  畑の脇にある小道を歩くと、畑をグルリとまわって衾田陵の正面に出た。説明看板によると、この古墳は西殿塚古墳と呼ばれ、その墳丘部分については「手白香(たしらか)皇女衾田(ふすまだ)陵」として宮内庁により管理されているという。

 しかし西殿塚古墳よりも先に見た西山塚古墳の説明看板で前述の通り、手白香皇女が6世紀ころの人物であることと西殿塚古墳と西山塚古墳それぞれの築造年代の関係から西山塚古墳を手白香皇女の真陵とする説もあるとか。

西殿塚古墳東殿塚古墳説明看板1  衾田陵前にある説明看板。西殿塚古墳(衾田陵)の東側には東殿塚古墳と呼ばれる古墳が並んで存在する。この説明看板には西殿塚古墳・東殿塚古墳両古墳の説明がなされていた。

西殿塚古墳東殿塚古墳説明看板2  この説明看板は割りと大きな説明看板で、右側には写真がいくつか掲載されていた。

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山の辺の道 衾田陵~崇神天皇陵

念仏寺墓地 21:念仏寺(11時04分) 衾田陵から山の辺の道に戻り少し歩くと、山の辺の道は墓地へと入っていく。ここを3年前に通ったときは随分驚いたものだが、今回は2回目なので…。 地図21:念仏寺

燈籠山古墳北側から  墓地に入るとすぐに、墓地の奥に小山のようなものが見える。この小山が燈籠山(とうろうやま)古墳であろう。

燈籠山古墳説明看板  少し墓地の小道を入っていくと、燈籠山古墳の説明看板があった。前方部は念仏寺の墓地に利用されているという。

燈籠山古墳西側から  墓地を通り過ぎる付近に、もう1枚燈籠山古墳の説明看板があった。その説明看板の付近からみた燈籠山古墳。

西側燈籠山古墳1  西側の説明看板。

西側燈籠山古墳2  説明看板の写真や図。

念仏寺  念仏寺の前を通過。

歯定神社 22:歯定神社(11時11分) 歯定(はじょう)神社は大和(おおやまと)神社の末社。大和神社御旅所(おたびじょ)の縦標もあった。 地図22:歯定神社

中山大塚古墳説明看板1  歯定神社の北側には中山大塚古墳がある。写真は歯定神社付近にある中山大塚古墳の説明看板。

中山大塚古墳説明看板2  中山大塚古墳説明看板に掲載されている写真。

畏れし神の勢い  大和神社の御祭神である日本大国魂神(やまとのおおくにたまのかみ)に関する説明看板。

長岳寺入口 23:長岳寺(11時24分) この辺りまで来ると、いよいよ疲れもピークに達しつつあった。とにかく座れる場所があれば小休止をとりたいところ。

 そんな最中、長岳寺に到着。疲れた体に鞭打って、長岳寺に向かう。入口には「下馬」の石碑が。歴史を感じる石碑だが(石碑は新しく見えなくもないが、現在、馬に乗って参拝する人は少ないだろうから)、「ここからは馬から下りて参拝せよ」という石碑であるのは一目瞭然。それにしても、あまり他のお寺では見ることがない石碑のようにも思える。ちなみに長岳寺の開祖は弘法大師(空海)という。 地図23:長岳寺

長岳寺門  長岳寺門。

ヒラドツツジ参道  門を通過して進むと見事なヒラドツツジ参道が。長岳寺は関西花の寺第19番霊場であり、ヒラドツツジの他にも四季折々の花が見所であるという。残念ながらヒラドツツジは既に散る間際であったが、まだまだキレイ。

長岳寺案内  ヒラドツツジ参道を歩いて通り過ぎると、長岳寺の案内看板があった。ここから先へ入るには拝観料が必要。

 長岳寺から山の辺の道に戻り少し歩くと、民家の向こうに大きな土手、更にその奥には森林のようなものが見えた。今回は上らなかったのだが、3年前に来た時は土手の上に上ってみた。土手の向こうには周濠があり、周濠の向こうに巨大な前方後円墳があった。この古墳が行燈山(あんどんやま、あんどやま)古墳(崇神(すじん、すうじん)天皇陵)である。

櫛山古墳説明看板1 24:櫛山古墳(11時41分) 山の辺の道は行燈山古墳から少し離れた位置を通っていたのだが、間もなく小道を右に曲がって住宅街から離れ行燈山古墳沿いを進むことになる。更に進むと左側にまた別の古墳が現れた。この古墳は櫛山(くしやま)古墳。行燈山古墳と櫛山古墳に挟まれた辺りに櫛山古墳の説明看板があったので見てみることに。 地図24:櫛山古墳

櫛山古墳説明看板2  説明看板に載っている写真。

櫛山古墳1  説明看板によると櫛山古墳は前方後円墳を基調とする前方部とは反対側の後円部先端にも前方部に匹敵する大型の祭壇を伴うため、双方中円墳と呼ばれているとか。

櫛山古墳2  中円部の頂上には竪穴式石室が発見されているようだが、発見された時には既に撹乱を受けていたようだ。

櫛山古墳3  櫛山古墳が行燈山古墳に隣接していることや石棺を用いた石室の存在、大型祭壇に白礫(はくれき)を敷き詰めた墓前祭祀跡など特別な印象を秘めている様子は、櫛山古墳の被葬者が行燈山古墳と関係する有力な人物であったことを想像させるという。

行燈山古墳説明看板 25:行燈山古墳説明看板(11時45分) 櫛山古墳を通過して間もなく行燈山古墳の説明看板があった。この手前で道が分かれているのだが、せっかくなので山の辺の道から反れて崇神天皇陵拝所へ行ってみることにした。 地図25:行燈山古墳説明看板

崇神天皇陵に向かう  行燈山古墳に沿って小道を歩いて行くと国道169号に出る。国道169号に出て右へ曲がると、すぐに崇神天皇陵の正面に出る。

崇神天皇陵入口付近地図 26:崇神天皇陵(11時55分) 山の辺の道から少し外れて国道169号まで出ると、行燈山(あんどんやま、あんどやま)古墳の正面に出る。入口には周辺の地図が掲示されていた。行燈山古墳は現在、崇人(すうじん、すじん)天皇陵として宮内庁により管理されている。 地図26:崇神天皇陵

崇神天皇陵1  現在、崇神天皇陵として宮内庁によって管理されている行燈山古墳。しかし崇神天皇陵の真陵が、実は西殿塚古墳(衾田陵)であるとか箸墓古墳であるとかという説もあるという。

崇神天皇陵2  「崇神天皇山邊道勾岡上陵(やまのべのみちのまがりのおかのえのみささぎ)」の碑。

 この後、もと来た道を引き返して山之辺の道に戻った。

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山の辺の道 崇神天皇陵~桧原神社

 山の辺の道と行燈山古墳の正面に向かう小道との分岐点にあった行燈山古墳説明看板まで戻った。ここからは再び桜井市方面に向かって歩くことになる。まずは渋谷向山古墳(しぶたにむこうやまこふん)を目指す。

渋谷向山古墳 27:渋谷向山古墳(12時13分) 続いて渋谷向山古墳付近に到着。渋谷向山古墳は現在、景行天皇陵として宮内庁に管理されている。山の辺の道は渋谷向山古墳の後円部側を通っているのだが、拝所は崇神天皇陵と同じく国道169号側にある。しかし今回は拝所には立ち寄らず先を急ぐことに。 地図27:渋谷向山古墳

渋谷向山古墳1  渋谷向山古墳の説明看板。天理側から山の辺の道を歩いてくると、この説明看板は渋谷向山古墳よりも少し手前にある。

渋谷向山古墳2  説明看板の航空写真と墳丘測量図。

28:直進して渋谷向山古墳を離れる 渋谷向山古墳を通過すると山の辺の道は天理市から桜井市へと入った。地図だと分かりにくいのだが、この場所は分岐点になっていて山の辺の道は直進方向になる。 地図28:直進して渋谷向山古墳を離れる

神籬跡 29:神籬跡(12時21分) 渋谷向山古墳を通過して少し歩くと大きな看板が出ていたので寄り道していくことに。程なくして神籬(ひもろぎ)跡があった。

 説明看板によると、この一画の小字は「ひもろぎ」であるという。小字の「ひもろぎ」は「神籬」に由来すると考えられているそうだが、神籬とは神祭りの施設で心霊の降臨する依代(よりしろ)であったとか。 地図29:神籬跡

神籬跡駐車スぺース  神籬跡は小さな史跡であるが、しっかりと駐車スペースまで確保されていた。

神話の里神籬説明看板  「神籬跡」説明看板。

30:突き当りを左へ 山の辺の道はやがて案内標識のあるT字路に出るので左へと進む。 地図30:突き当りを左へ

相撲神社分岐点 31:相撲神社分岐点 少し歩くと再び標識がたくさんある交差点に出るのだが、ここで桧原神社に向かう山の辺の道は右折となる。ちなみに、ここを直進すると相撲発祥の地と伝えられる相撲神社がある。

 相撲神社の付近に邪馬台国の有力候補地である纏向(まきむく)遺跡の説明看板がある展望台があるのだが、私は2012年に山の辺の道を歩いた折にこの展望台に立ち寄った。説明看板の内容と纏向遺跡を見下ろす風景に感動して、今回も立ち寄るつもりだったのだが、なんとここで道を間違えて右へ進んでしまい、桧原神社方面へ向かってしまった!その後、なんとなく通り過ぎた不安はあったのだが桧原神社まで進んでしまった。 地図31:相撲神社分岐点

32:右に曲がり三輪山麓を歩く それからしばらく歩くと山の辺の道は奈良県道50号大和高田桜井線と交差する。ここで左に曲がり、しばらく県道50号を歩くことに。この頃になると疲れがかなり出てきていたので、車を避けながらアスファルトの道を歩くのは相当キツかった。

 県道50号を歩き続けると、やがて山の辺の道は右へ曲がり三輪山麓に沿って進んでいく。この辺りは砂利の道になり疲れた足にはいくらか楽だ。 地図32:右に曲がり三輪山麓を歩く

コンクリートの道  ところで山の辺の道の長い道程を歩いていると色々な材質の道がある。せっかくなので山の辺の道の色々な材質の道をご紹介しておこう。

 これはコンクリート(アスファルト?)の道。現在の山の辺の道は意外と住宅地を通っている箇所が多いのでアスファルトやコンクリートで舗装された道が多い。もちろん雨で泥濘むこともないので歩きやすいのだが、長く歩いていると足へのダメージは大きい。

砂利の道  砂利の道。アスファルトに比べると足には優しいような気はするが、ゴロゴロして歩きにくいところはある。

土の道  長く歩いていると土の道が最高です。足の疲れ方が全然遅い。土の道の上に葉が積もっていたりすると、なおよろしい。まあ、雨が降っていると最悪に変わるのは目に見えているが。

石畳の道  石畳の道。観光地では比較的多く使われていて、雰囲気は良い。しかし長く歩いてきた足にはダメージが大きい!?

桧原神社 33:桧原神社(12時51分) ついに桧原神社に到着。桧原神社は大神神社(おおみわじんじゃ)の摂社で祭神は天照大神(あまてらすおおみかみ)。山の辺の道においても見所のひとつだけあって、さすがに参拝している人の数も多かった。 地図33:桧原神社

桧原神社と豊鍬入姫宮の御由緒  桧原神社と豊鍬入姫宮の御由緒。ところで2012年に山の辺の道を歩いたときは相撲神社付近にある纏向(まきむく)遺跡の説明看板がある展望台に立ち寄ってから桧原神社に着いたように思う。ということは、やはり相撲神社は通り過ぎてしまったことになるが観光客に混じってガイドさんらしき方がいたので聞いてみることに。すると相撲神社はだいぶ前に通り過ぎていることが分かった。少し迷ったが時間もまだ早かったので疲れた体に鞭打ち引き返すことに。

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山の辺の道 纏向遺跡

 説明看板によると、纏向遺跡(まきむくいせき)は三輪山の北西麓一帯に広がる遺跡で、その広大な面積や、九州から関東に至る様々な地域の土器が全体の15%前後も出土していること、前方後円墳発祥の地と推定されていること、農耕具がほとんど出土せず土木工事用の工具が圧倒的に多いことなど、他の一般的な集落とは異なる特徴を多くもっているという。付近には景行天皇の纏向日代宮(まきむくひしろのみや)跡や垂仁天皇の纏向珠城宮(まきむくたましろのみや)跡の伝承地もあり、そのことから纏向遺跡がわが国最初の「都市」、あるいは初期ヤマト政権の「都宮」と目されているとか。

 少し悩んだが、結局、相撲神社を目指して引き返すことにした。30分ほど歩いて相撲神社への分岐点へ戻る。(地図31:相撲神社分岐点)分岐点まで戻ると、今度こそ間違えないように右へと進んだ。

纏向日代宮跡 34:纏向日代宮跡(13時21分) 今度は間違い無く相撲神社への分岐点を相撲神社方面に向かうと、間もなく纏向・日代宮跡(まきむく・ひしろみやあと)があった。纏向・日代宮跡は第12代景行(けいこう)天皇が即位後に宮を設けた場所と伝えられる。景行天皇は日本武尊(やまとたけるのみこと)の父と伝えられるが、この地の宮から全国統一を進めたという。 地図34:纏向日代宮跡

纏向日代宮跡説明看板  纏向・日代宮跡説明看板。

纏向遺跡説明看板のある展望台 35:纏向遺跡説明看板のある展望台(13時22分) 纏向遺跡説明看板のある展望台。一見、何の変哲もない展望台なのだが、ここが日本始まりの地である可能性がある場所であると思って見ると感慨深いものがある。 地図35:纏向遺跡説明看板のある展望台

纏向遺跡説明看板1  纏向遺跡の説明看板。

纏向遺跡説明看板2  説明看板に描かれている纏向遺跡のイメージ図。この図は必ずしも考古学的調査、資料に基づいたものではないという。しかし、この図を見て展望台からの景色を眺めると現在はのどかな農村の風景であるこの地が、かつて古代国家の中心地であったことが想像できて胸が高鳴る。

纏向遺跡説明看板のある展望台からの風景  展望台からの風景。実はこの展望台、纏向遺跡の範囲からは少し外れているようだが、纏向遺跡の範囲を見渡せる高い位置にあるので、ここが選ばれたのであろうか。

 ところで、この旅の前に携帯電話を買い変えた(いまだにガラケー、スマホではない)。この携帯のカメラにはミニチュアライズという実際の風景を模型風に撮影できる機能が付いていて、そのモードで撮影してみたのだが…。あまり模型っぽく写らなかった。

相撲神社入口 36:相撲神社(13時26分) 纏向遺跡説明看板のある展望台から少し上ると相撲神社がある。この相撲神社は日本の国技である相撲発祥の地であるとか。 地図36:相撲神社

カタヤケシ由緒  カタヤケシ由緒。相撲神社入口付近にある。大兵主神社(だいひょうずじんじゃ)神域内小字カタヤケシにおいて野見宿禰(のみのすくね)と当麻蹴速(たいまのけはや)による日本最初の勅命天覧相撲が催されたという。

力士像  相撲神社に入るとある力士像。いかにも、という感じであるが、この像が寄進されたのは2013年の7月。かなり新しい。

土俵  土俵がある。

縣社兵主神社の碑  縣社兵主神社の碑。旧社格が県社であったという。

相撲神社説明看板  相撲神社説明看板。

相撲神社の碑  相撲神社の碑。

相撲神社  相撲神社。

 この後、再び桧原神社まで戻り西に向かい国道169号方面へと進んだ。目的は箸墓古墳(はしはかこふん)である。

 箸墓古墳は2012年に山の辺の道を歩いた時にも立ち寄った。前回は天気が悪かったこともあって箸墓古墳を見た時点で先に進むのを諦め、巻向駅に向かい天理駅に戻った。今回は天気も良くて時間も十分あったので、箸墓古墳を見てからも桜井駅を目指せるであろう。

大神神社大鳥居遠景  桧原神社から西へ向かうと、しばらくは山道を下ることになる。ちなみに箸墓古墳から山の辺の道に戻るためにはこの道を引き返すことになるのだが、当然帰ってくる時には上り坂になる訳だ。

 坂道を下ると左(南)側に大神神社(おおみわじんじゃ)の大鳥居が見える。

箸墓古墳南側道路 やがて道は箸墓古墳の南側へと進んでいく。写真の右側に見える森が箸墓古墳。

箸墓古墳西側通路  更に歩くと右(東)側に進む小道が。この道を進むと拝所がある。

大市墓拝所 37:箸墓古墳(14時22分) 箸墓古墳は現在、孝霊天皇(こうれいてんのう)皇女倭迹迹日百襲姫命(やまとととひももそひめのみこと)大市墓(おおいちのはか)として宮内庁により管理されている。付近の箸中古墳群における盟主的存在の巨大な前方後円墳で、邪馬台国の女王・卑弥呼の墓であるという説もある。 地図37:箸墓古墳

大市墓宮内庁注意書き  太市墓拝所にある注意書きの看板。

箸中大池より箸墓古墳  大市墓の拝所から再び国道169号方面に向かう。間もなく箸中南交差点を右へ。国道169号に出た。右手に箸墓古墳を望みながら少し進むと、箸中交差点に至る。箸中交差点に至るまで右側には箸中大池というため池があるのだが、その周囲は土手に囲まれていて国道から見ることはできない。しかし箸中交差点の付近で土手の上に上がることができるのだ。

 土手の上に上がると箸中大池の向こうに箸墓古墳の全景を見渡すことができる。箸墓古墳は現在、第7代孝霊天皇(こうれいてんのう)皇女の倭迹迹日百襲姫命(やまとととひももそひめのみこと)大市墓(おおいちのはか)として宮内庁に管理されていることは前述の通り。しかし邪馬台国の女王・卑弥呼の墓であるとか、その後継者・台与(とよ?)であるとか、はたまた第10代崇神天皇(すうじんてんのう)の墓であるという説もあるという。

 邪馬台国論争といえば日本古代史で最大のミステリーともいえる。それに加えて実在した最初の天皇という説もある崇神天皇。箸墓古墳には古代ミステリーの鍵となる要素が凝縮しているように思う。箸中大池の向こうに見える箸墓古墳をもっと見ていたい気もするが先はまだ長い。再び山の辺の道へ戻ることにした。

国津神社 38:国津神社(14時44分) 箸墓古墳に向かう途中でも気になってはいた。というよりも、2012年に箸墓古墳を訪れた時にも気になっていた神社。箸墓古墳から山の辺の道に向かう過程で、ようやく国津神社に立ち寄ってみた。なんとも立派な神社。 地図38:国津神社

国津神社祭神  国津神社に入り、拝殿だろうか、奥の建物まで進むと祭神が書かれていた。隣に貼ってあった説明書きによると、国津神社の祭神は天照大神の御子神五柱であるという。また合祭神として素戔嗚尊(すさのおのみこと)も祀られている。

国津神社説明  国津神社説明書き。

拝殿?  拝殿だろうか。

神輿?  中に入っているのは山車か神輿か。

 国津神社を参拝した後は、再び桧原神社目指して歩いた。やがて桧原神社まで戻ると山の辺の道を桜井駅目指して歩く。

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山の辺の道 桧原神社~大神神社

 国津神社からキツイ上り坂を登って桧原神社まで戻った。相撲神社を通り過ぎてきてしまった理由により、一度、桧原神社から相撲神社まで引き返したこともあり、この日桧原神社に到達したのは、これが3度め。何はともあれ、山の辺の道を右へ進んで大神神社(おおみわじんじゃ)を目指した。

玄賓庵 39:玄賓庵(15時11分) 玄賓庵(げんぴあん、げんぴんあん、げんびんあん)に到着。中には入らなかったのだが。門の外に説明看板もあった。 地図39:玄賓庵

玄賓庵説明看板  門の外にある玄賓庵説明看板。玄賓庵は桓武・嵯峨天皇から信任厚かった法相宗(ほっそうしゅう)の玄賓(げんぴ、げんぴん、げんびん)僧都(そうず)が隠棲したといわれる庵であるとか。

狭井神社鳥居 40:狭井神社(15時26分) 玄賓庵の前を通過して15分ほど歩くと鳥居があったので入ってみた。かなり大勢の人が参拝していて初めはこれが大神神社(おおみわじんじゃ)かと思ったが、この神社は大神神社の摂社で狭井神社(さいじんじゃ)であった。 地図40:狭井神社

誌  境内を進むと、こんな碑があった。この碑は三輪山信仰と大神神社の神事を作品に著した三島由紀夫について書かれている。三島由紀夫は三輪山に登拝して、その感動を記しているが、現在でもここ、狭井神社から三輪山に登拝することができるという。

狭井神社拝殿  拝殿。私は三輪山登拝はしなかったのだが、登拝は登拝料を支払って行うことができるとか。三輪山は大神神社の御神体であり聖域であるので、たすきを首にかけるとか飲食禁止であるとか撮影禁止であるとか、色々決まりがあるらしい。

市杵島姫神社鳥居 41:市杵島姫神社 狭井神社の中にもうひとつ鳥居がある。この鳥居は市杵島姫神社(いちきしまひめじんじゃ)の鳥居だ。市杵島姫神社は大神神社の末社。 地図41:市杵島姫神社

鎮女池  鎮女池(しずめいけ)。この池に浮かぶ島にご祭神の市杵嶋姫命(いちきしまひめのみこと)が鎮座する。

大美和の杜展望台 42:大美和の杜展望台(15時34分) 狭井神社(さいじんじゃ)の付近には展望台の案内看板がいくつも出ていたので立ち寄ってみることに。案内看板に従って辿り着いた、ここが大美和の杜展望台。なるほど、大神神社の大鳥居を中心に素晴らしい景色だ。大鳥居の左側に見える山は大和三山のひとつ、耳成山(みみなしやま)か。 地図42:大美和の杜展望台

大神神社説明看板  こちらは大美和の杜展望台の付近にあった大神神社の説明看板。

奈良県景観資産  展望台にあった奈良県観光資産の説明看板。

 大美和の杜展望台を立ち去り少し歩くと、いよいよ大神神社(おおみわじんじゃ)に到達。大神神社は山の辺の道ハイキングコースにおいて目的地のひとつと言っても良いだろう。

史跡大神神社境内の碑 43:大神神社(15時42分) ついに大神神社に到着。写真は大神神社境内の碑。 地図43:大神神社

大神神社拝殿  大神神社拝殿。大神神社は三輪山を御神体とする神社で本殿はないとか。日本最古の神社のひとつであるという。

 大神神社に着いた時、すでに時間は15時40分を過ぎていた。しかし天理駅から桜井駅を目指すルートも大神神社を過ぎれば、いよいよ最終章と言っても良いだろう。ここまで来れば、2012年に歩ききれずに途中で断念したゴールの桜井駅まで辿り着ける目処も立ったというところか。

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大神神社~桜井駅

平等寺山門 44:平等寺(15時50分) 大神神社を出発して少し歩くと平等寺の山門前を通った。由緒によると開基は聖徳太子と伝えられているそうだ。平等寺は三輪別所とも呼ばれ、高徳の上人を中心に、仏法の奥義を極めようとする行学一如の根本道場として栄えたという。

 平等寺は明治の廃仏毀釈により堂塔ことごとく破壊されて廃止となった。その後、昭和52(1977)年に平等寺は復興したのだが、山門は旧平等寺で唯一の建造物であるとか。 地図44:平等寺

平等寺境内  山門をくぐって境内へ。左側に見える赤い建物が本堂、奥の建物は不動堂だろうか。

三輪山平等寺由緒  三輪山平等寺由緒。

平等寺赤門  山の辺の道は平等寺の西側にある山門から境内をグルっとまわって南側にある赤門の前へ出る。赤門はかつて重層の門であったというが、昭和51(1976)年、住職によって手作りで建立されたとか。赤門をくぐると本堂の正面に出るので重要な門なのだろう。

三輪山平等寺赤門の碑  山の辺の道三輪山平等寺赤門の碑。

平等寺赤門前の渓谷  山の辺の道は赤門の前で大きくU字型に曲がっている。なかなかの絶景だ。

磯城瑞籬宮跡 45:磯城瑞籬宮跡(15時55分) 山の辺の道を進むと磯城瑞籬宮(しきのみずかきのみや)跡の案内標識が出ていた。磯城瑞籬宮跡は山の辺の道から反れて右へ曲がった所にあるようだ。右へ曲がると間もなく「第十代崇神天皇磯城瑞籬宮跡」の標識が立っていた。 地図45:磯城瑞籬宮跡

志貴御縣坐神社  志貴御縣坐神社(しきのみあかたにますじんじゃ)。この地は崇神天皇(すじんてんのう・すうじんてんのう)王朝の都・磯城瑞籬宮跡に推定されている場所だ。現在は志貴御県坐神社となっている。崇神天皇は実在した初めての天皇とも神武天皇と同一人物とも言われている天皇で、日本古代史において重要な鍵を握る天皇ということもできる。

金屋の石仏 46:金屋の石仏(15時59分) 山の辺の道に戻って再び桜井駅方面に向かうと間もなく喜多美術館がある。その正面に小さな建物があるのだが、この中に金屋の石仏2体がおさめられているという。 地図46:金屋の石仏

金屋の石仏説明看板  金屋の石仏説明看板。

海柘榴市説明看板 47:海柘榴市説明看板(16時07分) 海柘榴市(つばいち)は山の辺の道の起点とも言われている。その説明看板があった。いよいよ山の辺の道の旅も終わりが近い。ここを左に曲がると観音堂があるようなので行ってみた。 地図47:海柘榴市説明看板

海柘榴市観音堂 48:海柘榴市観音堂(16時10分) 海柘榴市(つばいち)観音堂に到着。ここには古くから観音堂があったらしいが、老朽化したので近時建てかえられたという。 地図48:海柘榴市観音堂

海柘榴市観音堂説明看板  海柘榴市観音堂説明看板。

仏教伝来の地碑 49:仏教伝来の地(16時16分) 海柘榴市観音堂を出発すると間もなく大和川の土手に突き当たった。土手に上ると、そこには仏教伝来の地の碑がある。 地図49:仏教伝来の地

仏教伝来の地説明看板  仏教伝来の地説明看板。説明看板によると泊瀬(初瀬・大和川の上流部)川畔一帯は崇神(すじん・すうじん)天皇磯城瑞籬宮(しきのみずかきのみや)、欽明(きんめい)天皇磯城島金刺宮(しきしまのかなさしのみや)、最古の交易市である海柘榴市(つばいち)などの史跡を残し「しきしまの大和」と呼ばれる古代大和朝廷の中心地であったという。この地は難波津から大和川を逆行してきた舟運の執着地であったので、大和朝廷の都の外港として重要な役割を果たしていたとか。欽明天皇の時代に百済から仏教を伝来した使節も、この湊に上陸してすぐ南の磯城島金刺宮に向かったという。

歌垣説明看板  歌垣説明看板。交易市として発展した海柘榴市(つばいち)では人の交流も盛んとなり、若者が恋に芽生えて恋の歌をかけ合う歌垣の舞台としても知られたという。

馬井手橋  馬井手橋(うまいでばし)。大和川を渡る。この橋を渡っても海柘榴市(つばいち)の説明看板があったりして、しばらくは山の辺の道の雰囲気が残っているのだが、やがて街中に入っていくと山の辺の道の雰囲気はすっかり無くなる。まるで古代大和朝廷の時代から現代に戻ってきたかのような不思議な感覚。天理駅を出発してから7時間以上歩いてタイムスリップしてきたかのような旅も、そろそろ終わりが近付いてきた。

桜井駅 50:桜井駅(16時44分) 時々迷いながら桜井市の市街地を桜井駅目指して歩いていく。古代の面影を残す山の辺の道から現代の市街地に戻ってきたようで、まだ感覚が戻らないようだ。しばらく歩くと桜井駅に到着。山の辺の道の旅もここまで。ここから電車に乗って天理駅に戻ることになる。 地図50:桜井駅

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桜井市~奈良市

 桜井駅にはJR西日本桜井線(万葉まほろば線)と近鉄大阪線が乗り入れている。桜井駅に着くと北口から駅に入った。私は普段から移動には車を使う生活。ほとんど電車に乗ることはない。そんな私が久しぶりに電車に乗ったから大変。どこで切符を買っていいやら迷いに迷う。2012年に山の辺の道を歩いた時は巻向駅(まきむくえき)から電車に乗ったのだが、巻向駅は無人駅で上りと下りしかなく簡単だったので…。

 苦労したが、無事、JR西日本桜井線(万葉まほろば線)天理駅までの切符を購入。桜井駅から天理駅までの運賃は240円(2015年05月05日現在)。16時58分発の電車に乗ることができた。電車は、そこそこの乗車率で座ることはできなかった。

 17時14分天理駅着。ようやく、この日の出発点に戻ってきた。天理駅に着くと、早速、我が愛車STiの待つ駐車場へ向かう。

天理駅前駐車場帰還  17時19分、駐車場に帰還。車に戻ると、この日の宿泊先を探すことに。それにしても奈良県はビジネスホテルが少ない。さすがに奈良市には選ぶほどはあるのだが、奈良市以外ではビジネスホテルを探すのも一苦労だ。昨日はホテル選びで痛い思いをしたこともあり、この日は2012年に宿泊した奈良公園近くの奈良ワシントンプラザホテルで予約をとった。

 17時36分、天理駅前の駐車場を出発。本当は右へ進みたいのだが、中央分離帯のため右折できないので左に進む。

51:丹波市町西交差点 天理駅前駐車場を出発して左に進むと間もなく丹波市町西交差点に至る。ここで左折して国道25号に入った。 地図51:丹波市町西交差点

52:川原城町交差点 国道25号に入ったのも束の間。すぐに川原城町交差点で左折して国道169号に入った。 地図52:川原城町交差点

紀寺交差点 53:紀寺交差点(18時08分) それから国道169号をしばらく走ると紀寺交差点に達するが、ここで左折して国道169号を離脱した。ちなみに国道169号を走る過程で天理市から奈良市に入っている。 地図53:紀寺交差点

大森町交差点 54:大森町交差点(18時17分) 紀寺交差点を左折して国道169号を離脱すると市道に入った。市道をしばらく進むと大森町交差点に至るのだが、大森町交差点は奈良県道1号奈良生駒線と京都府道・奈良県道754号木津横田線の交点である。ちなみに奈良県道1号は、ここが起点。直進すると奈良県道1号なのだが、ここは右折。京都府道・奈良県道754号に入った。 地図54:大森町交差点

55:油阪交差点 京都府道・奈良県道754号を進むとJR奈良駅の前を通過する。直後にJR奈良駅前交差点を右折して三条通に入れば、私が向かう奈良ワシントンプラザホテルに到着するのだが、日曜日と祝日は三条通で交通規制が行われて車両は進入できない。この日は祝日だったので、JR奈良駅前交差点を通過して直進、油阪交差点まで進んで右折し、国道369号に入った。 地図55:油阪交差点

大森町交差点 56:今辻子交差点(18時22分) 国道369号に入った直後、今辻子交差点で右折。かなり細めの市道に入った。この市道に入れば三条通に出る直前に奈良ワシントンプラザホテルの裏側に出ることができるのだが、ホテルの裏側に奈良ワシントンプラザホテルの駐車場がある。 地図56:今辻子交差点

奈良ワシントンプラザホテル到着 57:奈良ワシントンプラザホテル(18時25分) 奈良ワシントンプラザホテルの駐車場に到着。このホテルは2012年にも宿泊したのだが、JR奈良駅に近く奈良公園へ歩いていっても無理はない位置なので観光にも大変便利。駐車場に到着した時、長野を出発してからの走行距離は591.1kmになっていた。もっとも、この日はほとんど歩いていたので走行距離は前日から伸びていないが。 地図57:奈良ワシントンプラザホテル

奈良ワシントンプラザホテル客室  チェックインして部屋へ。前日に宿泊先で大変な思いをしたので、なんと心地良く清潔感のある部屋と感じたことであろうか。1日歩いた疲れもあり、シャワーを浴びてからひと眠り。起きてから街へ出た。

立呑み居酒屋まついし 58:立呑み居酒屋まついし ホテルを出たのは20時過ぎであったと思うが、少し酒を飲みたいと思って居酒屋を探した。JR奈良駅前に向かうと立呑み居酒屋を発見。私は立呑み居酒屋にあまり入ったことがなかったので、入ってみることに。 地図58:立呑み居酒屋まついし

 中はそれほど広くなかったが、考えてみれば椅子がいらないので店内は広く感じる。すでに混んでいたが、カウンターで飲ませて頂いた。おつまみは殆どが出来合いのもの。その他には、おでんがグツグツ煮込まれていた。生ビール中ジョッキが一杯400円(2015年05月05日現在)など飲み物も安い。ご主人や店員さんの愛想も良くて調子に乗ってしまい、山の辺の道を歩いた話などして長居してしまった。飲み過ぎ。

 この後、ホテルに戻り睡眠。山の辺の道を歩ききった満足感に酔いしれて眠りについた。

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