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にっぽん自動車ぶらり旅
~インプレッサWRX STi編~

愛知の旅

2012年12月27日~30日

12月30日(日)

長篠の戦い古戦場を巡る

 この日、長野県へ戻ることは決めていたのだが、せっかくなので長篠の戦いの古戦場跡を巡ってから帰ることにした。実は長篠の戦いの古戦場跡は、私が大学生だった頃、ゼミ旅行で訪れた場所。もう大昔のことで今は様子もだいぶ変わっただろうけれども懐かしい場所だ。

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豊田市

1:ホテルα‐1豊田(09時05分) この日は朝食も食べずに出発したのだが、ホテルを出た時、時間は既に09時を過ぎていた。ゆっくりめの出発というべきか。まずは前日インターネットで調べた鞍ヶ池公園を目指す。天気が悪くて心配だが…。 地図1:ホテルα‐1豊田

2:喜多町4丁目信号(09時13分) ホテルα‐1豊田を出発すると、昨晩来た道を引き返し、名鉄三河線高架橋下の信号が無い国道153号交点に出た。ここは右折ができないので仕方なく左へ。その後、小坂本町4丁目信号、小坂本町5丁目信号、神田町1丁目信号をそれぞれ左折して国道155号へ。そして西町4丁目信号を右折。グルッと回って国道153号まで戻ってきた。更に挙母町(ころもちょう)1丁目信号まで進み左折。喜多町4丁目信号で右折。市道に入った。 地図2:喜多町4丁目信号

 

豊田大橋 豊田大橋(09時14分) 画像が悪くて本来掲載できる写真ではありませんが…。あまりにも立派な橋だったもので。ちなみに右前方に見える建物は豊田スタジアム。

3:上野町6丁目南信号(09時17分) 豊田大橋を渡って間もなく上野町6丁目南信号を左折。 地図3:上野町6丁目南信号

 

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鞍ヶ池公園

 その後、高橋町4丁目信号を右折して愛知県道343号則定豊田線へ。しばらく則定豊田線を走ると鞍ヶ池公園に着く。

 

鞍ヶ池公園 4:鞍ヶ池公園(09時47分) 愛知県道343号則定豊田線に出てから鞍ヶ池公園まで1本道なので迷うことも無いハズなのだが、そこで私は迷ってしまい、結局、鞍ヶ池公園に到着したのは09時47分。 地図4:鞍ヶ池公園

 

鞍ヶ池公園西駐車場 鞍ヶ池公園西駐車場 鞍ヶ池公園にはいくつか駐車場があるようだ。公園の西側にも西駐車場があり、空車になっていたのだがゲートが施錠されている!

 

鞍ヶ池公園西駐車場案内標識 鞍ヶ池公園西駐車場案内標識 案内標識によると時間的には開いているハズなのだが…。しかし、この日は12月30日。年末年始やお盆では多いことだが、休みだったのだろうか。

 

鞍ヶ池公園ハイウェイオアシス地図1 鞍ヶ池公園ハイウェイオアシス地図1 公園の入口付近に案内看板が出ていたので見てみる。確かに園内の施設は殆ど(全て?)年末は休業になっていた。園内は遊歩道も充実しているようだが、雨も降っていたので歩くのはやめた。

 

鞍ヶ池公園ハイウェイオアシス地図2 鞍ヶ池公園ハイウェイオアシス地図2 こちらは園内を拡大した地図。前の地図と並んで立っていた。

 

鞍ヶ池 鞍ヶ池 案内看板付近から鞍ヶ池を撮影。ご覧の通り天気も悪くて真っ暗。

 

トヨタ鞍ヶ池記念館入口 トヨタ鞍ヶ池記念館入口 豊田市といえば自動車メーカーのトヨタ。この日、鞍ヶ池公園に来たのはトヨタ鞍ヶ池記念館を見たかったためと言っても良い。トヨタ鞍ヶ池記念館は紡織機から自動車へと発展していったトヨタのルーツなどを見ることができるそうだが…。

 

トヨタ鞍ヶ池記念館休館 トヨタ鞍ヶ池記念館休館 案の定、この日は休館。やはり年末に博物館へ入るのは難しい。

 

トヨタ鞍ヶ池記念館 トヨタ鞍ヶ池記念館 それでも建物だけ撮影。この後、鞍ヶ池公園を出発。長篠の戦い古戦場に向かおうとするが…。とりあえず長篠城跡へ向かう。

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豊田市~新城市

 長篠城跡があるのは新城市(しんしろし)。まずは長篠城跡を目指して新城市に向かう。鞍ヶ池公園を出発したのは09時50分過ぎであった。

5:岩滝町高入信号(09時56分) 鞍ヶ池公園を出発すると愛知県道343号則定豊田線をもと来た豊田市街地方面へ引き返す。岩滝町高入信号まで引き返すと左折。市道に入った。 地図5:岩滝町高入信号

6:泉町2丁目信号(10時01分) やがて国道301号交点の泉町2丁目信号に到達。ここを左折して国道301号に入った。 地図6:泉町2丁目信号

7:杉山北信号(11時00分) しばらく国道301号を道なりに進み続ける。国道301号は一時、豊田市と岡崎市の市境を通るのだが、この間は豊田市と岡崎市を出たり入ったり。その後、新城市(しんしろし)に突入。新城市に入ってしばらく走ると杉山北信号に至り左折。国道151号に入った。 地図7:杉山北信号

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長篠城跡

 長篠の戦いは1575(天正3)年5月、武田勝頼軍1万5千が徳川家康の将、奥平貞昌以下500の守る長篠城を包囲したことに始まる。攻防約10日、織田信長3万・徳川家康8千の援軍が5月18日に長篠城西方4kmの設楽原に到着して陣を築いた。5月20日、武田軍は長篠城の囲みを解いて設楽原に進出。21日夜明けとともに織田・徳川連合軍の陣地に突入するが、武田軍は壊滅的な敗北を喫することとなる。

 

長篠城跡 8:長篠城跡(11時20分) 国道151号をしばらく進むと、やがて右側に長篠城跡の看板がある。そこで右折、長篠城跡に到着。長野を出発してから700.9km。ついに旅の走行距離が700kmを超えた。 地図8:長篠城跡

 

長篠城跡入口看板 長篠城跡入口看板 ちなみに、これが長篠城跡入口の看板。なんだか凄い看板だが、この絵は落城間近の長篠城内に篭城する兵たちに、援軍が来ることを知らせて磔にされ殺された鳥居強右衛門(とりいすねうえもん)である。

 

長篠の戦い史跡めぐりコース 長篠の戦い史跡めぐりコース 駐車場にある案内看板。後に史跡めぐりをする際、デジカメに撮ってあったこの地図が大変役立つことになる。

 

長篠城跡史跡保存館休館 長篠城跡史跡保存館休館 既に大昔の話であるが、私は大学のゼミ旅行で長篠城跡を訪れた。その時、この長篠城跡史跡保存館を見学した記憶がある。しかし、この日は残念ながら休館。中に入ることはできなかった。

 

長篠城跡史跡保存館入口 長篠城跡史跡保存館入口 休館日だけあって入口階段の途中に柵が設けられていた。

 

保存館前説明看板 保存館前説明看板 長篠城跡史跡保存館は休館であったが、館外に説明看板があった。何れにしても長篠城跡史跡保存館は休館なので長篠城跡を散策することに。

 

長篠戦図 長篠戦図 陸軍参謀本部編「日本戦史長篠役」を基本にして、1575(天正3)年5月、長篠城攻防から設楽原決戦までの武田軍と織田・徳川軍の配陣を示す(「長篠戦図」より)。  

帯郭跡 帯郭跡 この付近は帯郭跡らしい。

 

要害の長篠城 要害の長篠城 長篠城の説明看板。

 

歴代長篠城主 歴代長篠城主 長篠城の歴代城主と主な出来事が説明されている。

 

長篠城縄張概図 長篠城縄張概図 こうして見ると現在の長篠城跡よりも、かなり広かったことが分かる。現在、城跡として残っているのは本丸跡ということになるのか。

 

本丸土塁上長篠城址碑 本丸土塁上長篠城址碑 これが本丸土塁の上にある長篠城跡の碑である。

 

旧城藪稲荷様鳥居 旧城藪稲荷様鳥居 本丸跡の奥へと進んで行くと赤い鳥居が連続してあった。とりあえず上ってみる。

 

城藪稲荷様移転 城藪稲荷様移転 長篠城跡が文化財として保存されることに伴って城藪稲荷様は大通寺に移転されたという。

 

鳶ケ巣山 鳶ケ巣山 長篠城本丸跡から見ると南東に位置する鳶ケ巣山。武田兵庫頭信実が陣を構えたという。天気が悪くて全く見えなかったが。

 

JR飯田線 JR飯田線 長篠城本丸跡の南東方面裏には現在JR飯田線が走っている。

 

物見櫓跡 物見櫓跡 飯田線の向こうに見える物見櫓跡の標識。

 

鳶が巣方面の戦い説明看板 鳶が巣方面の戦い説明看板 5月20日、長篠城の囲みを解いて設楽原に進出した武田軍は、鳶が巣をはじめ5つの砦に部隊を残し長篠城のおさえとしていた。ところが5月21日の夜明け、徳川軍の酒井忠次は5砦を奇襲。その戦いの説明看板である。

 

武田軍の五砦 武田軍の五砦 恐らく天気が良ければ、ここから武田軍の五砦が見えたのだろう。生憎の天気で、この日はこんな感じでありましたが。

 

野牛郭址殿井 野牛郭址殿井 (やぎゅうくるわあととのいど)野牛郭は本丸の南側に位置し、宇連川(うれがわ)と寒狭川(かんさがわ)に挟まれた地形。それと殿井(とのいど)。しかし相変わらず悪天候のせいか、殆ど見えない。

 

三輪川 三輪川 長篠城の南東を流れる三輪川(みわがわ)。別名は宇連川(うれがわ)。江戸時代以前は大野川と呼ばれていたという。後ろに見える橋は愛知県道439号能登瀬新城線の牛渕橋(うしぶちはし)か。

 

渡合 渡合 宇連川(うれがわ)と寒狭川(かんさがわ)の合流点。説明看板にある牛渕橋(うしぶちはし)は前述「三輪川」参照のこと。

 

鳥居強右衛門磔死の碑 鳥居強右衛門磔死の碑 対岸に鳥居強右衛門(とりいすねうえもん)磔死(たくし)の碑があるそうだが、もちろん見えません。

 鳥居強右衛門は落城間近の長篠城を抜け出して、家康に救援を求めるため岡崎まで走った。強右衛門が岡崎に着いた時には既に信長も岡崎に着いており、織田・徳川の援軍が間もなく来ることを知る。強右衛門は急いで長篠城に戻るが、城の対岸で武田軍に捕まってしまった。武田軍は強右衛門に「援軍は来ない」と城兵に叫ばせようとするが、強右衛門は「援軍は間もなく来る」と叫んだという。そのため強右衛門は篠場野の地で磔にされ殺された。

 鳥居強右衛門が「援軍は来る」と城兵に知らせたおかげで兵糧も残り少なく落城間近であった長篠城がもちこたえられたとも言える。そのため強右衛門は現在でも長篠でヒーローとして伝えられているのだ。

 

鳥居強右衛門磔の場所 鳥居強右衛門磔の場所 寒狭川(かんさがわ)の対岸で鳥居強右衛門は磔にされたという。

 

鳥居強右衛門説明看板 鳥居強右衛門説明看板 長篠城攻防戦における鳥居強右衛門の活躍と最期について書かれた説明看板。

 

寒狭川 寒狭川 三河湾に注ぐ豊川(とよがわ)が宇連川(うれがわ)と合流する前には寒狭川(かんさがわ)の別名がある。

 

矢沢川 矢沢川 武田勝頼の本陣があった医王寺より寒狭川に流れ込んでいる。

 

不忍の滝 不忍の滝 「本流の豊川(寒狭川)に落ち込む滝が少しずつ後退してできた滝で、侵食された深い谷は、長篠城西側の天然の堀の役目をしています。」(不忍の滝説明看板より)

 

長篠城本丸跡木碑 長篠城本丸跡木碑 長篠城本丸跡の木碑。

 

史蹟長篠城址碑 史蹟長篠城址碑 長篠城の碑。長篠城跡をおおよそ見て回ったので、この後城跡から出て1575(天正3)年の長篠城攻防戦跡を巡る散策路を歩いてみることに。

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馬場美濃守信房の墓

 長篠城跡を見終えると、外に出て長篠の戦いの史跡めぐりに向かった。

 

糧庫跡 9:糧庫跡(11時46分) 長篠城跡の駐車場から出ると、すぐ目の前に糧庫跡がある。特に説明看板も無かったので糧庫跡について詳しくは分からないのだが、字から推測すると兵糧などが蓄えられていた倉庫なのではないだろうか。この位置が二の丸であったことも標識から分かる。また、林藤太夫高英屋敷跡も、この位置にあったらしいが、やはり説明看板は立っていなかったので説明は控えさせて頂くが、恐らく江戸時代の人物と思われる。 地図9:糧庫跡

   

鳥居強右衛門呼びかけの所 鳥居強右衛門呼びかけの所 長篠城跡から馬場美濃守信房の墓へ向かう途中にある標識。鳥居強右衛門は矢沢の対岸にあたるこの位置から二の丸方面に呼びかけたと思われる。

 

家老屋敷跡 家老屋敷跡 家老屋敷跡の木碑。弾正郭と大手郭の間にあたるこの付近には家老屋敷が並んでいたと思われる。

 

馬場美濃守信房の墓入口 10:馬場美濃守信房の墓入口(11時53分) 間もなく「←長篠城址 馬場美濃守信房の墓→」の標識を発見。私は長篠城址方面から来たので反対側の馬場美濃守信房の墓方面へと進んだ。住宅地へと入っていく。 地図10:馬場美濃守信房の墓入口

 

馬場信房の墓左折 馬場信房の墓左折 標識通りに進んでいけば馬場信房の墓に辿り着けるハズ。住宅街の分かれ道を左に曲がる。

 

馬場信房の墓分岐点1 馬場信房の墓分岐点1 ここで分岐点(?)に遭遇!一応、標識はあるのだが…。

 

馬場信房の墓分岐点2 馬場信房の墓分岐点2 標識の先はこんな感じ。標識は写真の手前にあるので、どちらに進んで良いのか分からないような気がするのだが…。答えから先に言うと、右の高い道が正解。しかし道も広く見えるし左の方が、いかにもお墓がありそうに感じる。という訳で、左へ進んでしまった。

 

間違えて川原に向かう 間違えて川原に向かう 「この辺りで気付けよ!」というお声が聞こえそうだが、馬場美濃守の墓がこちらにあると信じて疑わぬ私は進み続けた。道の険しさに動揺しながら。

 

間違えに気付く 間違えに気付く さすがに「間違っているな」と思いつつ、ついに豊川(寒狭川)が見えてきてしまった。ここで道が間違っていることを確信して引き返すことに。

 

正しい道うを進む 正しい道を進む 先ほどの分岐点まで引き返して正しい右側の道を進む。

 

馬場美濃守信房の墓 11:馬場美濃守信房の墓(12時01分) 多少トラブルもあったが、ついに馬場美濃守信房の墓に到着。 地図11:馬場美濃守信房の墓

 

馬場美濃守信房の墓近影 馬場美濃守信房の墓近影 馬場美濃守信房は武田3代に仕えた40数年で70以上の戦に参加したが、かすり傷ひとつ負わなかったと伝えられる猛将。そのため後世、「鬼美濃」と称された。1575(天正3)年、長篠の戦いにおいては退却する武田軍の殿を守り抜き戦死したという。

 

馬場美濃守信房の墓石碑 馬場美濃守信房の墓石碑 馬場美濃守信房の墓近くにあった石碑。写真では何が書いてあるのかサッパリ分からない。私は写真に撮っただけで現地では全く読んでいないので、本当に何が書いてあるのか全く分からない。それにしても石碑の字を写真に撮影するのは難しい。

 

馬場美濃守信房の墓説明看板 馬場美濃守信房の墓説明看板 その名の通り、馬場美濃守信房の墓の説明看板であります。この後、もと来た道を引き返して馬場美濃守信房の墓入口まで戻り、左に曲がって国道151号方面へ向かった。

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天神山陣地跡

 私は基本的に長篠城跡にあった「長篠の戦い史跡めぐりコース」案内看板の遊歩道を辿って歩いた。とは言っても、案内看板の地図は大変簡素なので、ほとんど勘で歩いていたと言っても過言ではない。

 国道151号に出ると、「長篠の戦い史跡めぐりコース」案内看板では右側に追手門跡があることになっている。しかし遊歩道から外れる上に、取り立てて大きな目印も無さそうだ。先ほど激しく道に迷ったこともあり、迷子になるのを恐れて追手門跡は無視することに。

 追手門跡を諦めて天神山陣地跡を目指して進む。まずは国道151号を渡り市道を進んだ。しばらく進むとT字路に出るが右に曲がりすぐに左折。すると割と広い道路、鳳来寺道に出るので横断。左手に味処・茶寮本陣を見ながら直進した。

 

天神山陣地跡標識 天神山陣地跡標識 天神山陣地跡の標識を発見。道が正解であったと分かり一安心。

 

荏柄天神社 12:荏柄天神社(12時16分) 天神山陣地跡の標識を通過すると荏柄天(えがらてん)神社がある。先程見た天神山陣地跡標識の裏に山道が続いているように見えなくもなかったが、馬場美濃守の墓に向かう途中、激しく迷子になった記憶が蘇り、結局のところ荏柄天神社へ向かった。しかし、帰宅後インターネットで調べると、確実な答えは得られなかったがこちらで正解のような気はする。 地図12:荏柄天神社

 

荏柄天神社説明看板 荏柄天神社説明看板 荏柄天(えがらてん)神社の説明看板。

 

荏柄天神社本殿 荏柄天神社本殿 長さはそれほどでもないが、かなり急な石段を上ると本殿がある。

 

荏柄天神社の縁起 荏柄天神社の縁起 荏柄天神社本殿の側にある縁起。

 

天神山陣地説明看板 天神山陣地説明看板 荏柄天神社にある天神山陣地説明看板。結局のところ、荏柄天神社付近が天神山陣地であったのだろうか。説明看板によると天神山陣地は、一条信龍、真田信綱、真田昌輝、土屋昌次など約2千の兵が陣取ったという。ここから盛んに長篠城を攻めたらしい。

 

石段下る 石段下る 荏柄天神社本殿から先程上った石段を下りて道路に戻る。ご覧の通り、かなり急な石段である。

 ところで長篠城跡にあった「長篠の戦い史跡めぐりコース」看板では天神山陣地跡は山頂付近にあることになっている。まあ説明看板の記述であるので、どの程度の信憑性があるのかは定かでないが、少なくとも言えるのは荏柄天神社が天神山の中腹にあるということ。兵2,000の陣の規模がどれ位のものなのか想像もつかないが、山頂から荏柄天神社付近まで陣が広がっていたのか、もしくは荏柄天神社付近に陣があったのか。それとも陣は山頂にあったのか。説明看板があるくらいなので解明されているのだろうけれども、私的には答えが出なかったので謎とさせて頂きます。

 長篠城跡にあった「長篠の戦い史跡めぐりコース」看板では遊歩道が天神山の山頂を通っている。つまり天神山陣地跡から武田勝頼本陣地跡まで山道を通って進む遊歩道があるということ。しかし結局発見できなかったので(やはり天神山陣地跡標識の裏にあった山道らしきものが遊歩道だったか?)、もと来た道まで下りて医王寺を目指した。

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医王寺山武田勝頼本陣跡

 

医王寺 13:医王寺(12時27分) 少し歩くと医王寺に到着。医王寺の下(道路側)には大きな広場(駐車場?)がある。この広場の奥に説明看板があった。 地図13:医王寺

 

新城市指定文化財医王寺山武田勝頼本陣跡説明看板 新城市指定文化財医王寺山武田勝頼本陣跡説明看板 医王寺山の武田勝頼本陣跡説明看板。医王寺の創立は1514(永正11)年。長篠の戦いが1575(天正3)なので、創立61年にして歴史的戦場の舞台となることに。

 

医王寺 医王寺 説明看板のあった広場(駐車場?)から武田勝頼本陣跡に向かう。写真は武田勝頼本陣跡に向かう道から撮った医王寺。

 

勝頼本陣跡に向かう山道 勝頼本陣跡に向かう山道 道路から離れて山道に入った。この先に武田勝頼本陣跡がある。

 

医王寺武田勝頼陣所地図 医王寺武田勝頼陣所地図 山道を上っていくと広場に出て、医王寺武田勝頼陣所地図があった。この地図を見ると、長篠城を攻めていた勝頼の本陣には、いくつかの曲輪や道が整備されて城砦化されていたようだ。

 

勝頼本陣跡展望台 勝頼本陣跡展望台 本陣跡には木製の展望台っぽい建物があったが、どこか傷んでいたのだろうか。縄が張られて立入禁止になっていた。

 

勝頼本陣跡 勝頼本陣跡 恐らくここが勝頼本陣の本曲輪跡になるのだろう。椅子などもあるが山の中なのでなかなか落ち着かない。目的地にも到達したことであるし結局この後もと来た道を引き返して医王寺に戻った。

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大通寺山陣地跡

 

大通寺に向かう 大通寺に向かう 勝頼本陣跡から再び医王寺に戻ると、次は大通寺を目指す。田んぼの間を通る小道を歩き、結局、鳳来寺道に出て大通寺に向かった。

 

大通寺説明看板 大通寺説明看板 10分ほどで大通寺に到着。入口に説明看板があった。

 

大通寺 14:大通寺(12時54分) 石段を上ると大通寺。写真を撮らずに残念であったのだが、本堂の右側に長篠城から移転された城藪稲荷様が鎮座する。長篠城にあった旧城藪稲荷様と同じく赤い鳥居が連続して並んでいた。 地図14:大通寺

 

杯井案内看板 杯井案内看板 城藪稲荷様の奥へと進むと杯井の案内看板が立っていた。

 

大通禅寺杯井 大通禅寺杯井 決戦前日の5月19日、医王寺山本陣での軍議の後、馬場信房は決戦回避を主張して果たせなかった同志の将、内藤昌豊、山県昌景、土屋昌次を自陣の大通寺山に同道した。そして大通禅寺杯井の水をかわし合って決別の杯とし、決戦に挑んだという。

 

大通禅寺杯井説明看板 大通禅寺杯井説明看板 この話に出てくる四将は信玄に重用された武将であるが、前日の軍議で決戦回避を主張して退けられたという。両軍の兵力差にも諸説あるが、設楽原(したらがはら)の決戦では相当な兵力差があったのは間違いないので馬場信房をはじめとする宿将たちが決戦回避を主張したという話も頷ける。

 

大通寺と盃井戸説明看板 大通寺と盃井戸説明看板 こちらの説明看板には大通寺や長篠の戦いにおける大通寺山陣地の説明なども書かれている。

 

大通寺陣地案内看板 大通寺陣地案内看板 杯井の奥に墓地があるのだが、お墓の間を通り過ぎると裏山に続く散策路がある。

 

大通寺陣地への散策路 大通寺陣地への散策路 散策路を進む。この日は雨が降っていて、山の中にある古戦場をひとりで歩いていると不気味な雰囲気すらある。この季節、クマなどの心配は少ないと思うがオバケは年中無休でしょうから…。

 

大通寺山陣地跡 大通寺山陣地跡 散策路に入って2分ほどで陣地跡に到着。気持ち早足になっていたこともあるかもしれないが、意外に早く着いた。

 

大通寺山陣地説明看板 大通寺山陣地説明看板 陣地跡には説明看板が立っている。説明看板によると、大通寺山陣地には武田信豊、馬場信房、小山田昌行が二千の兵で陣取っていたらしい。
 大通寺山陣地跡を見学した後、長篠城に戻る。地図でご確認頂ければ分かるように、大通寺と長篠城は目と鼻の先。

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鳳来寺に向かう

 大通寺山陣地跡を見学し終えると、長篠城跡に戻った。次は徳川家康出生ゆかりの名刹と伝えられる鳳来寺へ向かうことにする。まずは国道151号伊那街道を右へ進んだ。

15:長篠信号(13時14分) 伊那街道は長篠信号で左方向、愛知県道32号長篠東栄線へと進む。私もここを左折して伊那街道を進んだ。 地図15:長篠信号

16:愛知県道32号・389号交点 しばらく愛知県道32号を進み続けると愛知県道389号交点のT字路に辿り着いた。ここで県道32号と伊那街道は左へ進むが、私は右折して愛知県道389号富栄設楽線を進んだ。 地図16:愛知県道32号・389号交点

17:愛知県道524号交点 ここで県道389号は右へと反れるが、直進すると愛知県道524号門谷豊岡線へと進む。私は直進。ここから鳳来寺山パークウェイだ。 地図17:愛知県道524号交点

18:鳳来寺山パークウェイ分岐点 この位置で鳳来寺山パークウェイは分岐。左折すると鳳来寺の駐車場へ向かう区間となる。鳳来寺山パークウェイは既に無料化されているが、駐車場で500円(2012年12月30日現在)徴収される。 地図18:鳳来寺山パークウェイ分岐点

 

鳳来寺パークウェイ駐車場 19:鳳来寺パークウェイ駐車場(13時28分) 鳳来寺パークウェイ駐車場に到着。相変わらず雨が降っている。 地図19:鳳来寺パークウェイ駐車場

 

鳳来寺パークウェイ駐車場到着時トリップメーター 鳳来寺パークウェイ駐車場到着時トリップメーター 長野を出発してから712.3kmを走破。この後、雨の中を鳳来寺へと向かう。

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鳳来寺

 

東照宮と鳳来寺本堂まで案内看板 東照宮と鳳来寺本堂まで案内看板 駐車場から東照宮まで500m。鳳来寺本堂まで700m。

 

シャッターが閉まるお土産屋さん シャッターが閉まるお土産屋さん この日は12月30日。翌日の大晦日は大盛況であろうとも思うが、この日はシャッターが閉まっていたお土産屋さんの軒並み。

 

路線案内図 路線案内図 駐車場から東照宮・鳳来寺本堂に向かって歩くと、すぐに説明看板がいくつか立っている。ひとつめが、この路線案内図。

 

鳳来寺山ハイクマップ 鳳来寺山ハイクマップ ふたつめは、この鳳来寺山ハイクマップ。鳳来寺周辺ハイキングの見どころを確認できる。

 

遊歩道よりの眺望図 遊歩道よりの眺望図 三つめ、遊歩道よりの眺望図。天気が良ければ参考になったのだろうけれども、この日は生憎の天気で眺望を確認できず。

 

遊歩道からの風景 遊歩道からの風景 この日は天気が悪くて良い写真が撮れず残念であったが、どうしてどうして。山間の靄がかかる風景は、この悪天候ならでは。貴重な体験でした。惜しむらくは一眼レフを持っていなかったこと。この景色ならば一眼レフで撮影したかったような気もする。

 

建物が見える 建物が見える 切り立つ崖の下に建物が見える。なんとなく日本離れした風景だ。

 

岩山の上に石像 岩山の上に石像 この風景も素晴らしい。なかなか雨降りで喜ぶ機会も少ないが、山上のお寺と雨はベストマッチ過ぎる!

 

鳳来寺まで150m 鳳来寺まで150m 鳳来寺まで、あと150mと近付いた。

 

徳川家康出生ゆかりの名刹鳳来寺 徳川家康出生ゆかりの名刹鳳来寺 徳川家康出生のゆかりに関する鳳来寺説明看板。

 

鳳来寺田楽堂 鳳来寺田楽堂 「三河の田楽」は、新城市(しんしろし)鳳来寺、黒沢に設楽町(したらちょう)の田峯を加えた地方に伝わる民俗芸能の田楽である。昭和52(1978)年5月22日、重要無形民俗文化財として国の指定を受けた。毎年、1月3日に、この田楽堂で鳳来寺田楽が公開されるという。

 

鳳来寺本堂 鳳来寺本堂 本堂に到着。鳳来寺は、およそ1,300年前に利修仙人により開かれ、大宝3(703)年に文武天皇から鳳来寺の名を賜って建立されたと伝えられているそうだ。源頼朝や徳川家康ゆかりの寺でもあるという。

 

東照宮説明看板 東照宮説明看板 鳳来寺本堂に着いた後、雨も降っていることであるし駐車場へ引き返すことにした。鳳来寺本堂と駐車場の間には東照宮があるのだが、帰り道で東照宮へ立ち寄ることに。写真は東照宮の説明看板。東照宮の説明看板は、何故か道沿いにいくつも立っている。

 

東照宮鳥居 東照宮鳥居 東照宮鳥居前に到着。

 

鳥居付近東照宮説明看板 鳥居付近東照宮説明看板 東照宮説明看板は今まで何度かあったが、今までとは少し違う説明看板。こちらの方が新しいようだ。少し面白いのは家康の父が、古い説明看板では「徳川広忠」と書かれているのに対して新しい説明看板では「松平広忠」と表記されていること。広忠が亡くなったのは天文18(1549)年で、家康が松平から徳川に改名したのが永禄9(1567)年なので、歴史的には松平広忠が正しい。もっとも家康が家督を継いだ時、既に広忠は没していたのだが。

 

鳳来寺山観光案内図 鳳来寺山観光案内図 東照宮前にある鳳来寺山の観光案内図。

 

東照宮 東照宮 石段を上ると東照宮。説明看板によると、松平広忠夫人・伝通院於大(おだい)の方が鳳来寺薬師如来に祈願して家康が生まれたと伝えられる。その因縁により3代将軍家光が造営したもので、日本の三東照宮の一つに数えられるとか。ただし日本三大東照宮で、日光と久能山の二社は共通であるが、残りの一社を名乗る東照宮は鳳来寺山の他にもいくつかあるという。

 その後、駐車場まで戻る。駐車場まで戻ると、次は長篠の戦い決戦の地・設楽原(したらがはら)を目指して出発。鳳来寺パークウェイ駐車場を出発したのは14時06分であった。

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設楽原に向かう

 

鳳来寺パークウェイ駐車場 18:鳳来寺山パークウェイ分岐点(14時09分) 鳳来寺パークウェイ駐車場を出発すると、まずは愛知県道524号の交点まで戻り右折。これは、もと来た道を引き返すコースだ。愛知県道524号は、間もなく愛知県道389号との交点に達するが直進。愛知県道389号に入る。これも長篠城跡からの往路を引き返す経路だ。 地図18:鳳来寺山パークウェイ分岐点

 

鳳来寺パークウェイ駐車場 16:愛知県道32号・389号交点(14時15分) 愛知県道389号に入り少し走ると、愛知県道32号との交点に達する。ここを直進すると愛知県道32号と389号の重複区間なのだが、ここは左折。愛知県道32号へ。やはり往路を引き返すルートを取ることに。 地図16:愛知県道32号・389号交点

15:長篠信号(14時20分) 相変わらず長篠城跡からのもと来た道を引き返す。愛知県道32号を進み長篠信号まで進んだ。ここで右折。国道151号へ。 地図15:長篠信号

20:設楽原歴史資料館に向かって右折 長篠信号を右折して国道151号を西へと進むと、間もなく長篠城跡前を通過。結局、長篠城跡から鳳来寺パークウェイ駐車場までのルートを全く引き返してきたことになる。

 更に進むと国道151号は伊那街道から新城バイパスに変わる。このルートも朝、長篠城跡に向かう時に使った道。そして、新城市設楽原歴史資料館に向かって右折。久々に、この日初めて通る道となる。 地図20:新城市設楽原歴史資料館に向かって右折

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設楽原古戦場跡

 

新城市設楽原歴史資料館 21:新城市設楽原歴史資料館(14時33分) 国道151号から市道に入って間もなく、右側に駐車場がある。この駐車場は新城市設楽原歴史資料館の第二駐車場だ。まずは駐車場に車を停める。この旅に出てから走った距離は、既に727.8km。愛知県に入ってからも500km以上走っていた。 地図21:新城市設楽原歴史資料館

 新城市設楽原歴史資料館の付近は長篠の戦いにおける設楽原(したらがはら)決戦が行われた地である。新城市設楽原歴史資料館から見て北西の離れた位置に設楽原古戦場復元馬防柵があるハズなのだが…。天気が悪かったことも影響したのか、駐車場から目視による確認はできなかった。

 余談であるが設楽原古戦場復元馬防柵は、学生時代のゼミ旅行で訪れたことがある場所だ。当時の資料は無くしてしまったうえに殆ど覚えていないのだが、貧乏旅行で田んぼの中を歩いてばかりいたことを覚えている。

 果たして何処から歩いたのかさえも覚えていないのだが新城市設楽原歴史資料館のオープンは平成8年ということなので、当時は無かったことになる。…!おっと、年齢がバレルので、ここは内緒にしておくべきか?何はともあれ、私の記憶には新城市設楽原歴史資料館が全く無かったので、当時オープン前であったことが分かり一安心。付近の道も、当時とは大分変わっているように思う。

 

歴史資料館休館 歴史資料館休館 私が車を停めたのは道路側の第二駐車場。新城市設楽原歴史資料館は見えない位置にある。この日は12月30日。恐らく休みだろうとは思いつつ、石段の上にある資料館へ向かってみた。が、残念ながら資料館は休館。まあ、大晦日前日では仕方ないか。

 

設楽原歴史資料館 設楽原歴史資料館 とりあえず中だけでも覗いてみる。しかし、もちろん入ることはできない。残念。

 

歴史の分かれ道設楽原古戦場ガイド 歴史の分かれ道設楽原古戦場ガイド 入口付近に説明看板があった。説明看板には現在の地図に当時の布陣の様子が描かれている。この地図により、おおよそ設楽原古戦場復元馬防柵の位置を掴むことができた。

 

設楽原歴史資料館周辺ご案内 設楽原歴史資料館周辺ご案内 こちらは資料館周辺の案内図。料金表も書かれている。一般料金は300円。長篠城跡史跡保存館との共通観覧券の団体小中学生料金は、なんと80円。安い(料金は全て2012年12月30日現在)!

 周辺案内図によると私が車を停めた第二駐車場の他に、資料館直近の第一駐車場、資料館の反対側にも第三駐車場があるようだ。

 周辺の見どころとして設楽原古戦場復元馬防柵や信玄塚、首洗池が書かれている。

 さて、とりあえず車に戻った。資料館駐車場に着いた頃は馬防柵の位置がはっきりしなかったので、ここから歩いて探そうと思っていた。しかし資料館で位置確認ができたので、雨も降っていることであるし車で馬防柵へ向かうことに。

 

設楽原古戦場復元馬防柵入口 22:設楽原古戦場復元馬防柵入口 入口には特に看板も無かったように思うが資料館の前にあった地図から、ここが入口であると確信。小道であるが、連吾川を渡った後の交差点を右折。 地図22:設楽原古戦場復元馬防柵入口

 

設楽原古戦場復元馬防柵 23:設楽原古戦場復元馬防柵 ついに到着。設楽原古戦場復元馬防柵。私にとってはゼミ旅行以来、○○年ぶりの再訪である。思い出の地、感慨深い。 地図23:設楽原古戦場復元馬防柵

 

設楽原古戦場いろはかるた・え 設楽原古戦場いろはかるた・え ちなみに車は入口から小道に入って馬防柵付近まで来ると、数台停めることができるスペースがある。柵には、「いろはかるた」が何枚か貼られていた。

 

馬防柵説明看板 馬防柵説明看板 説明看板によると、徳川軍と織田軍で柵の攻口(出入り口)の様式が違ったという。…気付かなかった。残念。

 

馬防柵前の碑 馬防柵前の碑 復元馬防柵に沿って歩いていると、こんな碑が立っていた。

 

設楽原古戦場いろはかるた・つ 設楽原古戦場いろはかるた・つ 「いるはかるた」看板の横には「土屋昌次戦死之地」の碑が立っている。

 

名和式鉄砲構え説明看板 名和式鉄砲構え説明看板 看板が設置されたのは平成5年。現在においては説明看板と異なる見解もあると思うが、その件についてはここでは触れないでおこう。

 

雨中の馬防柵 雨中の馬防柵 この日は雨が降っていたが、設楽原の戦い当日も雨が降っていたら違った展開もあったのかもしれない。そんなことを思いつつ、そろそろ車に戻るのであった。

 この日の朝、出発する前は何処かでもう一泊しようかとも思っていたのだが、設楽原古戦場復元馬防柵を出発した時、時間は15時01分であった。この時間ならば長野に帰れそうだったので、一路長野を目指すことに。

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新城市~阿南町

 設楽原古戦場復元馬防柵を出発したのは15時01分。まずは国道151号新城バイパスに戻り左折。長篠城跡方面へと向かう。この区間、この日通るのは既に3度め。途中、清井田信号で国道151号は新城バイパスから伊那街道へと変わる。

15:長篠信号 伊那街道に入って間もなく、長篠城跡を通過。ここからは鳳来寺に向かったルート。間もなく長篠信号へ達する。鳳来寺に向かった時は、ここを左折。愛知県道32号に入った。しかし、今回の目標は長野県。直進して国道151号を進み続けた。国道151号は、ここから別所街道となる。 地図15:長篠信号

24:静岡県に最接近 国道151号別所街道を進み続けると、やがて新城市(しんしろし)から東栄町(とうえいちょう)に入る。東栄町に入って間もなく、国道151号は静岡県に最接近。その距離、50mあるか無いか。その先、別所街道は一時、国道151号を離れて右へ。国道151号は三輪バイパスとなる。 地図24:静岡県に最接近

 国道151号は、三輪バイパスを通過すると再び別所街道と合流。別所街道となる。その後も別所街道と離れたり合流したりしながら、しばらくは進む。

25:新野峠 その後、国道151号は東栄町(とうえいちょう)から豊根村(とよねむら)に入った。豊根村は長野県と接する県境の村。国道151号は県境の新野峠(にいのとうげ)へと進んで行く。

 新野峠を越えると阿南町(あなんちょう)に入る。ここから長野県だ。28日に愛知県へ入ってから2日ぶりの帰還。

 ところで国道151号は阿南町に入ると遠州街道となって、しばらく狭隘(きょうあい)区間が続く。少し苦労したが当時からバイパスの建設が行われていたようで、現在はどうなっているのだろうか。 地図25:新野峠

26:道の駅信州新野千石平(16時35分) 国道151号は狭隘(きょうあい)区間を抜けると再び道幅が広くなる。更に進むと道の駅信州新野千石平があったので立ち寄ってみた。辺りには既に夜の帳が近付いてきている。道の駅では色々な特産品が売られていて賑やかな雰囲気だった。16時46分、道の駅を出発。この後は休み無く帰路を辿ることに。 地図26:道の駅信州新野千石平

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阿南町~長野市

27:東鼎信号 道の駅信州新野千石平を出発してからも国道151号は、しばらく阿南町(あなんちょう)を走り続ける。やがて国道151号は下條村(しもじょうむら)を経由して飯田市へ。

 飯田市に入ると国道151号は東鼎(ひがしかなえ)信号に達する。ここで右折。この日、新城市(しんしろし)から走り続けてきた国道151号とは、ここでお別れ。ここから国道153号三州街道を行く。 地図27:東鼎信号

28:上新井信号(18時02分) 国道153号三州街道に入ると飯田市を通過、高森町(たかもりまち)を経て松川町(まつかわまち)に至る。松川町の上新井信号で左折。国道153号を離れて長野県道59号松川インター大鹿線に入った。 地図28:上新井信号

29:東浦信号 県道59号に入り、間もなく東浦信号を右折。県道から離れた。そのまま直進し続けると、長野県道15号飯島飯田線交点に達するので右折。ここから県道15号を進む。 地図29:東浦信号

30:柏木信号 長野県道15号を進むと飯島町(いいじままち)に入り柏木信号に達する。ここで県道15号は右折して与田切信号で国道153号と合流するのだが、私は柏木信号を直進。中央アルプス花の道と呼ばれる道路を進む。 地図30:柏木信号

31:北原信号 間もなく飯島町から駒ヶ根市に突入。そして北原信号に到達、ここで右折。長野県道75号駒ヶ根駒ヶ岳公園線に入った。 地図31:北原信号

32:北町信号 県道75号は初日に泊まったホテルルートイン駒ヶ根インターがある通り。この通りを通過して北町信号に至り左折。国道153号三州街道に入った。 地図32:北町信号

33:高出信号 それから国道153号をひたすら進む。国道153号は駒ヶ根市を通り過ぎると宮田村(みやだむら)、伊那市、南箕輪村(みなみみのわむら)、蓑輪町(みのわまち)、辰野町(たつのまち)を経由して塩尻市へ。

 塩尻市に入ると高出信号に達する。高出信号は国道153号と20号の終点であり、ここから左に行くと国道19号の木曽方面、直進が国道19号の松本方面という交通の要衝である。つまり飯田市から走り続けた国道153号は、ここで終わり。ここから直進して松本市方面へと向かう。 地図33:高出信号

 

帰宅 34:帰宅(21時38分) 国道19号に入ると、塩尻市、松本市、安曇野市(あづみのし)、生坂村(いくさかむら)、大町市を経由して長野市へ。27日に出発して以来、3日ぶりの帰還である。STi(GDB)に乗り換えてから初めての旅。走行距離は1,005kmであった。STiにとっては初めて、しかも冬ということもあって軽めに隣県・愛知県を選んだ旅であったが、なかなか見どころ多く楽しめた旅でもあった。

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